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『アパートに帰ると妹が遊びに来ていた』




   ≪2≫

「ああ、うん。それじゃあ……また電話するよ」
 妹が風呂からあがってくる気配がしたので、裕介は携帯電話との会話を切り上げた。
「あー、さっぱりしたわぁ」
 浴室から出てきた麻美子は、バスタオルを巻きつけているだけの状態だった。
 はちきれそうにみずみずしい太腿。タオルで隠しきれない部分は惜しげもなく晒され、しなやかにくびれた足首まで丸見えになっている。
 湯上りの赤味でほんのり染まったまばゆい生足を見せつけ、ゆったりとした歩調で麻美子が部屋を横切っていく。
(しばらく会わないうちに……すっかり女らしくなっちまったなあ……)
 裕介を挑発してやまない、艶かしい脚線美。
 妹はそんな兄の目線に気づいた様子もなく、ベッドの端に座り込む。小さなタオルで髪の水気を軽く拭ってから、ドライヤーで乾かし始めた。
「でも、ちょっと狭いわよね。お兄ちゃん、あのお風呂じゃ窮屈じゃない?」
「何から何まで勝手に使っておいて、風呂にまで文句つけるな」
 裕介は床に敷いた布団の上で寝返りを打ってから、携帯電話をちょっといじってから、枕元に置いた。
「だいたい、なんなんだ。突然やってきて……俺になんか用事でもあったのか」
「別に用なんかないわよ」
「それなら、さっさと帰れ。兄ちゃんは忙しいんだ」
「嫌よ。泊まっていくって言ったでしょ」
 そういえば晩飯の最中に、そんなことを言われたような気がする。
「それに兄妹なんだから、用事なんかなくたって会ってもいいじゃないの」
「そりゃまあ、そうだけど……」
「五年よ、五年! 普通、私たちぐらいの歳の兄妹で、そんなに会ってないほうがおかしいわよ。だいたいお兄ちゃんは、昔っからそうよ。呼んだってロクに返事もしないときがあるし、そのうえ……」
「わかったわかった」
 黒髪にドライヤーの温風をぶいぶい吹きつけながら、同じくらいの勢いでしゃべる麻美子。勢いづく彼女に、裕介は渋々といった態度を隠さずに頷き返す。
 裕介は昔から気の強い妹には弱かった。いつだって、真正面からの反論などできた試しがない。
 そんな日々を送っていたせいか、当然ながらこういう状況の流し方もしっかり身についていた。
「話は明日でもいいだろ。髪乾いたか? さっさと服着ないと風邪ひくぞ」
「お母さんみたいなこと言わないでよ」
「風呂あがりにタオル一枚なんて、親父じゃないんだから……なんでもいいから着なさい。今日はもう寝るから」
 兄の言葉に、すぐさま妹が唇をとがらせる。
「えー。もう寝ちゃうの?」
 時計の針は十時を回ったばかり。
 寝るにはまだ早い時間だろうか。
 それでも、裕介はさっさと眠ておくことにした。ひさしぶりに会った妹と話すのに、ちょっと間が持たない感じがしたからかもしれない。単純に体調のせいで、眠気を感じてきたせいもある。
 麻美子はいかにも不満そうに、可愛らしく頬を膨れさせた。
「なにそれ。つまんないの」
「兄ちゃんは仕事で疲れているんだ。さっさと寝かせてくれ」
「……おやすみなさいっ」
 毛布にくるまってベッドの上で丸くなる妹。
「着替えなくていいのか?」
「お布団の中で着替えるわよっ」
 丸くなった毛布の中からにゅっと手が出て、枕元に置いてある裕介のワイシャツを引き寄せた。
(やれやれ……まったく、麻美子はいくつになっても変わらないなあ……)
 ちょっと昔のことを思い出して、裕介は懐かしい気分になる。
 麻美子が小学生だった頃、休みの日に裕介が起こしに行ったときのことだ。ちょうど今と同じような感じで、布団の中にもぐったまま着替えをしていたことがあった。
 当時は裕介もやんちゃな時期だったから、布団の上から妹をつついてからかったりしたものだ。
 妹のクセはあいかわらずのようだった。そんな無防備な姿がひどく懐かしい。
 やがて着替えを終えたのか、毛布から頭だけが出てきた。裕介の角度からは後頭部しか見えない。
「もういいか?」
「……寝てますぅー」
 顔をそむけたままの妹から、機嫌の悪そうな声が返ってくる。
 拗ねた麻美子の後ろ姿を眺めながら、手を伸ばして電灯のヒモを引く。
「明かり、消すぞ。おやすみ」
 裕介が目を閉じると、すぐに寝息が聞こえてくる。
 そんなふうにやけに素直なところを見ると、そっけなくしてしまったことに悪い気もしてきた。
(明日になったら……気晴らしに、どこかに連れていってやるか……)
 ぼんやりと考えながら目を閉じて、数分ほどが過ぎただろうか。
 眠気がほどよくまぶたを重くする。
 意識が落ちそうになったところで、ふいに声がかかった。
「……ねえ……ねえってば、お兄ちゃん」
 麻美子の声が聞こえてきて、ハッと目が冴える。
「ねえ。お兄ちゃんってば。もう寝ちゃったの? 起きてるでしょ」
「ん……どうしたんだ?」
「そっち行っていい? こっち、なんか寒いんだよね」
「そのくらいガマンしろよ……って、おい」
 しゃべっている間に、麻美子が毛布の中にもぐりこんできた。
 裕介は仕方なく寝返りで妹に背を向ける。
 向かい合わせになるのは、さすがに照れくさい。そんな気持ちをごまかすような声が自然と出てきた。
「まったく、しょうがないやつだな……」
「いいじゃん。このくらい……エヘヘ」
 麻美子は笑いでごまかしてから、兄の背に額をくっつける。
「お兄ちゃん……私がいきなりやってきて、怒ってる?」
「そりゃまあ、いきなりだったけど……気にしてないよ。そんなに怒ったりするほどのことじゃないだろ」
 不安そうな妹の声に、今度は裕介が苦笑する番だった。
「親父とケンカしたぐらいのことで、俺に甘えるなんてさ。おまえも、まだまだ子供ってことだよな」
「ちょっと……なんで、お兄ちゃんがそれ知ってるの!」
「バカ。大きな声出すなっての。近所迷惑だろ」
 とっさに怒鳴った麻美子だが、兄にたしなめられてぼそぼそと呟く。
「どうして知ってるのよっ……」
「おまえが風呂に入ってる間に、オフクロに電話して聞いたんだよ」
「そういうの信じられないんですけど! ズルいんだから……そんなの」
「落ち着けって。家族を心配させておいて、ズルいも何もないだろ」
 裕介は冷静な口調で、妹をなだめた。
「それで? どうしてケンカになったんだ」
 そうたずねても返事がない。
 麻美子は何も答えずに、甘えるみたいに兄の背中にひっついたままでいる。
 裕介は枕に乗せた頭を器用に俯かせ、仕方なさそうにため息をついた。
「言いたくないならいいけどさ。明日には帰ってもらうぞ」
「……だって、お兄ちゃんと私が……本当の兄妹じゃないって……お父さんが……」
 ようやく口を開いた妹の言葉で、裕介の肩にビクッと震えが走る。
「親父がそう言ったのか?」
 兄の背に額をくっつけながら、麻美子は首を振った。
「そうじゃなくて……お父さんとお母さんが、二人で話してたんだもん。お兄ちゃんは……うちの本当の子じゃないから、気を使って家を出ていったんだ……って」
 彼女はそこまで言って言葉を切る。
 やがて、意を決したように続く声が発せられた。
「そのことを聞いたら、お父さんが『おまえは知らなくていい』なんて言うから……ケンカみたいになっちゃって……ねえ。本当にそうなの。何年も帰ってこなかったのって、それが理由なの?」
「そうなのって、あのさ……」
「お兄ちゃんは家族と……私と血がつながってない、って本当に……」
 今度は裕介が黙り込む。
 彼女の言葉に嘘はない。その事実をはじめて知ったのは、ちょうど五年前だ。
 両親から、家族の中で自分だけは血のつながりがないと知らされたこと。
 それが結局、裕介が家を出るきっかけとなったのは事実だ。
(本当のことは、さすがに……言えるわけ、ないか……)
 事実はもうひとつある。
 兄妹という枷がなくなり、妹を一人の女性として裕介が意識してしまうようになったからだ。
 あるいは、その件がなければ裕介が実家を出ることもなかったに違いない。
 けれど今は、妹の前でそこまでの本音を口走るわけにはいかなかった。
「別に……そういうわけじゃないよ」
「それじゃあ、嘘なの? お父さんたちの言ってたこと、全部ウソなの」
「……それは、本当……だけど……」
 麻美子はふいに、兄の背中にしがみついてくる。
「でも、私……やだよ。このままお兄ちゃんが帰ってこなくなったら、そんなのイヤだよ……」
「なっ、なな……泣くことないだろ」
 妹の涙声を聞かされ、反射的になだめる裕介。
「昔みたいに……ずっと、ずっと一緒だって……思ってたのに……」
 すすり泣く妹の言葉を聞かされていると、裕介は何も言えなくなっていた。
「お兄ちゃんがいなくなるなんて……私、イヤなの。だって……だって私、お兄ちゃんのこと……」
「そんな子供みたいなことばっかり言うなよ」
 裕介は、やっとのことで妹を、そしてまた自分の気持ちをなだめるかのような声をしぼり出す。
「私、もう子供じゃないよ。お兄ちゃん」
「麻美子……」
「……私、もう子供じゃないんだからね」
 毛布の中で、麻美子の手が兄の腕をなぞる。
 やがて、彼女の小さな手のひらが、裕介の手首のあたりにそっと重ねられた。




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