≪1≫ アパートの一室で、巨大なカエルが寝そべっていた。 「ゲコ……」 大きく裂けた口から、つぶれた牛乳パックのような呻き声。 仰向けに転がったその生き物の腹は大きくせり出し、よじれた手足をだらしなく放り出している。 その姿は、人間というよりもまさしく両生類に近い。太鼓腹から伸びる猪首と、体型のわりに細い腕や腿のせいで、そんなふうに見えてしまうのだろう。 寝転がったカエル男に、冷ややかな声が放たれた。 「無様ですわね。兄上」 声の主である黒装束の少女は、やや離れた位置から相手を見下ろしている。 「忍びの里を抜けて半年……腕が鈍りましたか」 すわなんたる美貌であることか。 背のなかばほどまである長い黒髪が、光を受けると碧のきらめきを返す。澄んだ音色の声質どおり、宝珠のごとくひんやりとした表情がよく似合う、精緻な鼻筋と切れ上がった瞳が印象的な少女であった。 無骨な忍び装束を身に纏ってはいるが、その天然自然の美肢体は隠しようがない。 墨染めの着物をつき破らんばかりに盛り上がった豊かな胸元。そして、細帯で締めつけられた腰のくびれが描く、優美な曲線。さらには切りつめられた裾の丈からのぞく、しらじらと眩しくも溌剌とした張りの太腿のなんと悩ましいことか。 引き結ばれた唇からは、気性の強さがうかがえる。そんな性格を表したかのように、着物の袖は裾下と同様にスッパリと切り落とされていた。一見、活発な印象を抱かせる出で立ちであったが、不思議なことに肩口からのぞく腕は美姫の暮らしを送る者にしか得られないたおやかさがある。浮きたつ野生味に女性美を内包した姿、とでも言うべきか。 違和感を抱かせることが、ただひとつあるとするならば。 床に転がる醜いカエル男と、この美しい少女に血のつながりがあるという点だ。 兄上──と、たしかに彼女はそう呼んだ。 そしてまた、濡れ光る赤に彩られた唇から、ふたたび冷たい口調が流れ出る。 「学園を隠れ蓑に何をしているかと思いきや……おおっぴらにそこらの人々と同じような暮らしを送り、あまつさえこのように無防備なあばら屋で寝起きしているなど……まったくの予想外でした」 「げ、ゲコ……」 「そのあげく、ドアノブに塗った痺れ薬に触れて……まんまとこのありまさ」 彼女はフッと薄い笑みを浮かべる。 されどその冷笑の浮かぶ頬には、一抹のさびしさが艷やかに宿っていた。 「たったそれだけで事が足りてしまうとは……我が兄ながら情けない」 少女は残酷に、吐き捨てるかのごとく言い放つ。 「まさか父上のおっしゃることが本当であったとは……秘伝の忍法を伝えるためだけに兄上が生かされている、と。それゆえ、まともな忍術を一切仕込まれてはおらぬと…」 「ゲコゲコ……」 カエル男の口から、言い訳がましい鳴き声が発せられた。 彼女は兄の言うことなど意に介することもなく、手厳しい言葉を返す。 「それがまことのことであれば、兄上は……忍びの血筋を伝える我が一族の恥さらしに他ならぬ」 背負った刀をスッと抜き放つ。 「抜け忍始末の掟に従い、この楓が兄上を冥土にお送りいたしましょう」 楓と名乗った少女は手にした刀を構えた。 手首を返し、柄を握る手に力がこもる。とたんに背峰のまっすぐ伸びた忍刀が、主の眼光と同様に冷めた輝きを放った。斬ることよりも突きの動作に適した造りは殺傷力が高く、忍者独特のものである。 「妹の手にかかることを情けと思うがよい」 楓は無情な平眼で、床に這いつくばる兄を見据える。 「兄上。何か言い残すことでもござろうか」 「げ、ゲゲ、ゲゴゴ……」 あいもかわらず、沼底から沸いてくる泡のごとき声。 (し、舌まで痺れて……うまくしゃべれんのだ……) さきほどから言葉を発しようとしてできないのは、楓の痺れ薬が覿面に効いているからだ。 (これはいかん……早く……一刻も早く、楓に……俺の大事な妹に……) 自由のままならぬ体。 楓の言葉どおり、ドアに仕掛けられた罠にあっさりとひっかかったせいだ。痺れ薬のせいで、満足にしゃべることすらできない。忍法者にあるまじき醜態であった。 そんな状態ではあったが、兄としてどうしても言わなければならないことがある。 (俺の忍法が……危険なものであることを伝えねばならんというのに!) いまだ満足に動くこともできないまま、カエル男は心の中で叫びを放っていた。 |